2013年5月4日土曜日

【おぼえがき】What should have been done as going

1980年代前半に行われた第二次臨時行政調査会(第二次臨調、昭和56.3-58.3)におけるテーマの一つは、「増税なき財政再建」であった。もっとも、これは1985年のプラザ合意に始まる金融緩和策とそれに続くバブル経済で吹き飛んでしまうのだが。ただ、その後に続く行政改革の源流がこの第二次臨調にあることは否定できない。国家の行政運営の改革、というアイディアが日本に根付き始めたのはこの時期であった。

ところで、「増税なき」というのはどういう意味であろうか。

「増税なき財政再建」というのは、新自由主義をうまく表現しているように思う。というのは、彼らは「小さな政府」を目指していたからだ。つまり、より少ない徴税とより少ない行政サービスへの指向である。しかし、より少ない行政サービスが実現された、といえるだろうか?小さな政府というのは、行政国家化、福祉国家化の流れに反するものであり、つまり福祉サービスの削減なくして達成できるものではない。しかし、日本においては、一部の施策を除いて福祉政策が抜本的改革を経験することはなかった。

そして、このとき、いずれ増税が必要になる、という認識はなかったのだろうか?議会では増税は嫌われる。しかし、長期的展望に立てば、やがて増税が必要になることは明らかではなかったのか?あるいはここで「増税なき」というスローガンを立ててしまったことが、未来に重い荷物を送ることにはならなかったのだろうか?

福祉国家化の流れは止まらないだろう。それは「おひとりさま」の時代を迎えて明らかである。皮肉に聞こえるかもしれないが、それは主権国家の運命なのかもしれない。「家」という身分が消滅し、個々の国民という身分だけが残った近代国家の真の姿である。議会に新しい保守主義が到来する矛盾を感じ続けなければならないかもしれない。

【追記】2013.5.5
「増税なき行政改革」は第二次臨調の会長であった土光敏夫(1896-1988)が会長就任にあたって政府(鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官)に申し入れたものであるという。土光氏はエンジニア、実業家。東芝社長・会長を経て1974年、第4代経団連会長。

【かんそう】The Amnesiac of Big Crises

人はとかく忘れやすい生き物であるようだ。

【おぼえがき】Curse or Blessing

"Is this a curse or a blessing that we give?" - B. Joel "Two Thousand Years"(1997)

やはり、我々は何を再生産しているのか、という設問は用意しておかなければならないだろう。

2013年3月15日、安倍首相はTPP交渉参加を表明した。貿易の自由化において出遅れているとされている日本にとって、大きな一歩となりそうである。


ここで備忘録的に書いておきたいのは、新しい世代がどうなっていくのか、ということである。

人口動態から言及しておこう。
日本は先進国の中でも少子化と高齢化の進行が激しい。この流れが止まるか、という疑問は既に意味を持たない。高齢化は現在および将来の労働人口の相対的減少(による社会保障負担の増大)と言い換えてよいだろう。少子化については、「生み育てやすい社会」という目標だけは掲げられている。
労働人口の減少に対応する対策は、女性の労働力化である。しかし、これは、少子化対策とトレードオフの関係にある可能性がある。

「働かざるをえない」と感じる人々が、子供を産み育てる余裕を持てるだろうか?

もう一つは、日本において育児と教育がどのような役割を果たしているのか、という点を考えておく必要があるだろう。
教育が国民に与えてくれるものは大きい。
しかし、もはやその真偽はナイフの刃の上にある。日本はすでに先進国として基礎的教育の普及による恩恵を受ける段階をとうに通り過ぎている。
そして、とりわけ近年の日本において教育とは学歴の付与であった。つまり、大卒か、高卒か、中卒か、という区分である。しかし、大学進学率の上昇によってこの教育の在り方は社会に適合していないと見るべきである。

ほかにも考えるべき問題はある。
経済発展が資源開発と同義だと考えるならば、日本国民は資源開発によってより多くの資源を手に入れることができるのか?いや、それとも経済発展ではない何かから人々は何かを得ることを学ぶのだろうか?


我々の仕事は社会学であると言ってもいいのかもしれない。