2013年2月20日水曜日

【おぼえがき】ナショナリズムと血と地

Yakov M. Rabkin(2004)によると、シオニズムは脱宗教化と西欧的民族主義によって生み出されたものであるという。
("Au nom de la Torah: Un histoire de l'opposition juive au sionisme"(2004) 日本語訳版は、菅野賢治訳(2010)。)

ユダヤの民は血縁関係によって同定されるものではなく、トーラーに従って生活する者であるかどうか、という一点のみによって識別される。本書は、シオニズムがもはやユダヤの教えから離れたロシア帝国領下の(旧)ユダヤ人たちによって創始され、それがバルフォア宣言(1917)はもちろん、それより以前から敬虔なラビたちから批判され続けてきたことを描く歴史書である。

ユダヤ人とは、預言者を通じて神の言葉を受け取った集団のアイデンティティを指すものであって、すなわち民族的アイデンティティでも政治的アイデンティティでもない、純粋な宗教的アイデンティティなのである。したがって血や土地に関する結合を目的としていない。ユダヤの母から生まれた子がユダヤとは限らないのである。

シオニズムはユダヤ固有の運動に見えて実はそうではない。
その創始者たちは西欧的な民族主義を身にまとった啓蒙主義(ハスカラー)者たちであり、すでに脱宗教化した知識人であった。彼らが東欧における迫害を逃れるために唱えたのが「約束の地」への民族集団的入植だったのである。

そして筆者は、シオニストたちがパレスティナの地に対する執拗なこだわりを見せている事態をユダヤの危機と捉えている。というのは、神の導きなき(人為的な)約束の地への帰還は重大な教義違反であり、しかも、アラブ人との間に大きな軋轢を生んでいるからである。従来、この地に住まうユダヤたちはパレスティナ人たちとも共存してきた。シオニストたちがこの地にもたらしたのは西欧的な民族主義に感化された血と土地への強い帰属意識と排外主義、そして、ユダヤの名を借りた脱宗教=世俗政治である。そこでは、世界の全ユダヤ人を代表しているという偽りの自負の下、歪んだ歴史教育と戦争が肯定されるのである。

翻って、ここでは西欧的民族主義と脱宗教化現象の姿を透かして見ることができる。
ナショナリズムは、自己の民族の正当化根拠に歴史と用いる。そして、脱宗教化しながらも宗教の魔術を民衆意識にかける。その重要なファクターが血と土地なのである。ナショナリズムが血と土地に強い執着を見せるのはこのような理由である。誤ってはいけない。宗教も、血も、土地も、場合によっては言語でさえ、国家とは本来無縁の存在なのである。

そして、ここからはなぜ国家が中立でなければならないか、という憲法学的な議論をも引き出すことができるかもしれない。ヨーロッパでは、ナショナリズムに取り込まれやすい要素を中立原則の下で国家から引きはがすことが試みられた。しかし、唯一国家が無視することができない要素は領域であった。それはむしろ当然であろう。領域以外に国家を識別する方法がないからである。このように考えるならば、中立原則は「民族的アイデンティティ」になりうるものから国家が中立であることに端を発すると言って差し支えない。(オーストリア帝国でHans Kelsenが目指した一般国家というのはこのようなものではないかと思われる。)

そして、中立原則がアイデンティティの要素の多くを覆い隠すことができたのは経済(成長)によるところも大きい。特に世界大戦前後に国家の重要な任務が経済と福祉にシフトしたことはこれを示しているかもしれない。(ただし、経済政策はそもそも国家に可能なのか、という根源的な問いを忘れることもできない。)

しかしながら、この仮説は近代国家の悲劇的な展開だけを後に残してくれる。
もし政府が経済と福祉の政策に失敗したなら、あるいはこれ以上経済と福祉の発展を見込めなくなったとき、国家の辿る道は二つしかない―統治能力を失って瓦解するか、もはや国家とは本来何の関係もない、アイデンティティに見えてしかし何の実体のない卑俗なスローガンで民衆を煽動するか―。そして、実はこのフェーズに既に我々は到達しているのかもしれない。憲法改正の議論で良識ある真の保守派が実力で敗北し、国民に厄介に歪められた歴史観が植えつけられるのだとすれば、それはすなわち悲劇の幕開けを意味することになるだろう。

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