2013年2月22日金曜日

【おぼえがき】Everybody does it apart

人は、あらゆるものを分類せずにはいられないのだろうか?

分類―といえばより中立的に聞こえるかもしれないが、Karl Heinrich Marx(Ger, 1818-1883)はこれを階級あるいは階層(hierarchy)と呼んだ。マルクスとアナール学派の流れを汲むWorld-Systems Thoryを提唱したImmanuel Wallerstein(US, 1930-)も世界は階層構造になっていると考えている。

しかし、ここで述べておきたいのは、より人間、とりわけ近代人の精神的構造のことである。
Charles Robert Darwin(Eng, 1809-1882)の進化論は社会学にも重大な影響を与えたとされている。社会は時間を経るに従い発展しているという進歩概念はやはり人類の時間の考え方がこの時代に大きく変化したことを意味し、それはネオプラトニズム(Neo-platonism)の世界観である「流出論」と調和して世界の見方にグラデーションを与えているように見える。人間は、世界の根源たる神の下から去り、時ともに「成長」を自ら実現させることになったのである。

一般に、科学的思考は複雑な物事を分別し、分化させ、分散させるという働きを持つと言えるだろう。この科学主義はまさに近代の産物であったが、現代では危機に瀕しているのかもしれない。
科学主義の成果は、社会においてはとりわけ「分業」を達成した点にある。その手法は(労働)人口と資源(財)がともに増加する時代に適合していた。しかし、経済の拡大局面が終わると、それは新たな「身分」や「階級」の問題として社会的な注目を集めるようになっている。経済学で「既得権益」(rent)と呼ばれる問題群もこれに含めてもよいだろう。政治学・行政学では「官僚制」や「セクショナリズムの弊害」と呼ばれる問題と同質の問題である。直近マスメディアが取り上げたがるようになった「いじめ」と「体罰」も同じかもしれないし、スクールカーストという新しい用語も登場している(この辺りは日本の社会資本の問題も絡んでいそうでもある)。とりわけ現在の日本を騒がせているのは正規労働者―非正規労働者という新たな「闘争」の問題である。

これらの問題群には同じように「差別」や「区別」という人間の深い無意識の底から浮かんでくる欲求的な何かが潜んでいるように思えてならない。個々の人間が全く同じでないのは明らかだが、その相違を社会的な(つまり人間関係における)特徴に結びつける、という点で非合理的な(主観的)心理的作用である。日本では正社員と非正社員の違いは入社プロセスの違いであるが、これを待遇の差に直結させ、そして正社員も(自らは奴隷のように働きながら)非正社員に対しある種の優越感に浸る場合もしばしばである。

これは科学主義とは全く異なるものである。なぜなら科学主義の目指した客観性と合理性の原則とは正反対の方角を向いているからである。しかし、区別(あるいは差別)は近代科学主義のそれと同じもののように見える。これは近代以降に人間に埋め込まれた厄介な遺伝子なのだろうか?

西欧的な意味での(古典的)リベラリズムは、究極にはこれを乗り越えようとする思想である。公法学の世界ではウィーン学派に属するHans Kelsenの一般国家学がこれにあたると言ってもよいだろう。普遍的な国家像を求めるために脱宗教化しつつも、しかし、この議論が神学との隠れた連続性を見せていることは決して偶然とは言えない。神学が追及し続けた世界に関する合理的な説明を近代に引き継ぎ、それと同時に前近代と調和させるものであったのかもしれない。

これは科学主義の生み出す非合理性を科学主義の合理性で解決しようとした例である。現代の多くの学者たちもこの方法で世界を描き、発展させようとしている。しかし、忘れてはいけないのが、進歩主義が近代の産物ということである。人口が大きく増減することのなかった前近代は、「進歩」という概念がない時代であった。これから到来する時代は前近代と同じものかもしれない。現在人類は岐路―時間と共にゆっくり進歩を成し遂げていく道と、もはや時間概念がなく、ただただ長く、認識すらできない道が標識に示されている―に立っているのだ。我々がどちらの空間に存在しているのかは、ずっと後の時代の歴史家が教えてくれるだろう。残念ながら、誰も認識する手段を持ち合わせていないのである―神でないかぎりは。

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